【飛鳥水落遺跡】時を刻んだ「水時計」の今昔

【飛鳥水落遺跡】時を刻んだ「水時計」の今昔
 
かつて国家機密という、秘匿性の高い情報だった「時間」は今、人類の共有文明となっています。
機械式時計が発明される遙かな昔、正確な時間を知るための道具として日本に伝えられたのが「水時計」です。
 
その管理は陰陽寮に任じられており、専門職である「漏刻博士」という役職名が設けられていました。
日本で最初に「水時計」が作られたのは天智天皇が皇太子だった時代の物と言われています。
 
24本の柱に、柱の径に合わせた礎石。
柱の1本1本が丸太の太さであることを考えれば、これだけで建物の規模が想像できるのではないでしょうか。
これが、その当時「水時計」のためだけに立てられた家屋の規模なのです。
 
1秒よりもずっと小さな単位を人類が共有できるようになった現代においては信じられないようなことかもしれません。
しかし、1350年以上昔にはただ「時間を測る」ことが高い技術を必要とする国家の力を結集するほどの大事業でした。
 
中大兄皇子が建設した水時計は、現在でも「飛鳥水落遺跡」にて遺構が公開されています。
残念ながら建屋部分や仕掛けそのものは失われていますが、基礎の面積や礎石の大きさ、配置などからその規模を実感できるはずです。
 

飛鳥水落遺跡と日本最初の水時計

飛鳥水落遺跡と日本最初の水時計
 
「飛鳥水落遺跡」は奈良県高市郡明日香村飛鳥にある遺跡名で、その全体が水時計のために建築された建物の跡です。
発見は1981年。それから復元整備を重ねて、1987年に現在の姿を取り戻しました。
発見の翌1982年には国の史跡指定に追加で加えられています。
 
基壇の一辺は約22.5メートルで、かつ高さは約1メートルのおおむね正方形をしており、周囲を底部の幅約1.8メートルの溝が囲っている状態です。
その上に立つ建屋部分は「方四間総柱」の楼閣で、柱芯は一辺11メートル。
正確な時を知るためには緻密な計算が必要で、基礎そのもののつくりから「水時計」に特化して傾斜を持たせた構造で作られたと考えられます。
 
実際にその規模を肌で感じると、正確な時刻を知る、それがいかに大変な技術を結集したものか理解できるのではないでしょうか。
 

石造りの漏刻と漏刻博士の仕事

 
やはり天智天皇の治世であった671年、近江神宮に石造りの漏刻を建設しています。
飛鳥水落遺跡の漏刻跡から比較するときわめて小規模ですが、水時計そのものが復元されているので、今でもその実際の姿に触れることができる貴重なスポットです。
 
漏刻と言う大きな仕掛けを使って時を測った当時の人々を身近に感じていただくために、ここで漏刻博士の仕事を一部ご紹介しましょう。
 
律令下において、陰陽寮に所属する漏刻博士は、漏刻の警備、時刻の計測と記録、周知と保全を職務としていました。
水の流れと共に進捗する業務そのものは非常に静かに、かつ、確実に進んだことでしょう。
 
しかし、一方で多くの困難が伴ったものと考えられます。
というのも、当時の日本には現在のような水道がありませんでしたので、蛇口をひねれば不純物が限りなく除去された水を得られる環境ではなかったのです。
 
もし異物が混入すれば水の流れが滞り、いったん時が狂えば復調が限りなく困難だったことは間違いありません。
減った分の水を足すという単純作業ひとつを取っても、現代よりも多くの手間暇が掛かったのです。
 
水は一定の速度で延々流れ続けます。
そのゆったりとした静謐な空間では、おそらく実際に比べて、時間の流れはよりのびやかに感じられたものでしょう。
復元された石造りの水時計がある近江神宮の所在は、滋賀県大津市神宮町です。
初詣で参拝すれば開運へのみちびきがあるとされています。
産土神への参詣と合わせて三社詣りの一角に加えてみても良いかもしれませんね。